貧乏という身分? 『贋作吾輩は猫である』(内田百閒)

 百閒先生ご自身がモデルと思われる五沙弥と、教え子の出田羅迷(でたらめい)、狗爵舎(くしゃくしゃ)との会話が秀逸です。(以下、抜粋)

「お金は有る様にでも、無い様にでも、どうにでもなるさ」
「そんなものかね。だが僕等の様な貧乏人はその融通がつかないよ」
「一寸待った」と五沙弥が云った。「狗爵君がお金がないと云うのは、それでいいが、僕もそれはそうだろうと思うけれどだ、しかし、僕等の様な貧乏人と今云ったね、その一言は聞き捨てならん」
「なぜですか、先生」
「不都合な失言だ」
「どうしてです」
「君は貧乏人ではない」
「しかし本当に僕はこの節お金に不自由しています」
「だから、お金はないだろうと思う。しかし狗爵は依然として金持だ。我我とは丸で話が違う。金のない金持だ」
「そんなのがありますでしょうか」
「あるよ、現に君がそれだ」
「しかし先生、お金がなければ矢っ張り貧乏です」
「君、貧乏と云うものを、そう手軽に考えてはいかん。貧乏と云うのは、立派な一つの身分だ。君如き輩が差し当たりのお金に窮したからと云って、すぐに貧乏人面をしようと云うのは、分を知らざるの甚だしいものだ」
(中略)
「少し解った様な、ますます解らん様なお話です」
「狗爵舎の成貧根性で、解ったことが解らなくなるんだよ」と羅迷君が口を出した。
(抜粋、終わり)

 貧乏のスペシャリストを自負していらっしゃった(?)百閒先生ならではの文章だと思います。