「失われた時」を、求める理由

 『失われた時を求めて』の第13巻と、その「訳者あとがき」を読んで、プルーストが「失われた時」を求める理由が、やっと分かってきました。(以下、「訳者あとがき」をもとに、かいつまんでまとめておきます。)

 不揃いな敷石の感覚からヴェネツィアが、皿に当たったスプーンの音から野原の木立が、口を拭ったナプキンの感触からバルベックで用いた糊のきいたタオルがよみがえるというような現象を、プルーストは「無意志的記憶現象」と呼んだ。

 ふだん「現在を観察するとき」には感覚が、「過去を考察するとき」には知性が、「未来を期待するとき」には意志がそれぞれ介在するせいで、自分自身が衰弱してしまう。ところが、無意志的記憶現象があらわれるときには、「過去にも現在にも共通」する「エッセンス」が、「昔の日と現在とに共通する領域、つまり時間を超えた領域」において「時間の秩序から抜けだした人間をわれわれのうちに再創造」し、われわれ自身を「将来の有為転変などを気にしない存在」たらしめたから、幸福感がもたらされるのである。(まとめ、終わり)

 抽象的にも思えますが、プルースト自身が、自分の生涯をかけて気づいたことであるので、13巻まで読了した私には、腑に落ちる考え方でした。それにしても、6年ぐらいかけて読んできた『失われた時を求めて』も、残りはあと1巻。まだ刊行されていないことで、かえってほっとします。すべてを読了するのが惜しい気持ちがしてきたのです。